宗教について

先日講義では世界の宗教と日本人について、大変興味深いお話をいただいた。JICAの考えとしては、外国に出る前に恥をかかない程度の知識はもっていてもらいたいとのことだろう。

学んだこと
①世界の大きな宗教の神の呼び名、聖典、基本的な考え
一神教多神教の違い
③戒律の存在意義
④日本独自の仏教
⑤神と仏
⑥現地で自分の宗教をどう表現すべきか

①に関しては既知のことがほとんどであったが、ユダヤ教の経典がTANAKH(タナハと発音していた)であることを知った。また、一神教ユダヤ、キリスト、イスラム教)の神に名前がないこともはじめて知った。YHWHやGOD、Allāhなどは各々の言語で「存在」や「神」を表しているに過ぎず、区別する必要がないということだ。

②この項目が一番興味深かった。
一神教の世界で契約が重んじられるのは、一神教では神と人との契約が極めて重要であるという解釈がとても新鮮だった。
一神教の世界は創る(天地創造:Create;創られたもの→Creatures)からすべてが始まったが、多神教では産む(国産み)によりすべてが始まった。創ると産むの違いは、全能の神と現世に生きる我々が直接繋がっているか否かであるということだ。創る方は創り主と創造物に直接的な繋がりはない。しかし、産むほうは生き物が子を産むように自分とほとんど同じ形で、物理的な繋がりが強い。こういった経緯で、一神教では神とそれ以外の立ち位置には絶対的な違いが存在し、容易には近づくことはできない(別の方法で近づけるのかもしれないが。。。)。しかし、多神教では親とこの関係と同じように立ち位置に大きな差はない。だから、多神教では神々と祭りのときに共に戯れることさえありうる。ヒンズー教でも神道でも性に関して奔放な部分があるのもこういった理由があるのかもしれない。

③ほとんどの宗教に戒律があるのは、他宗教との交わりを妨げる効果があるという話は興味深かった。以前読んだ食の本に、「食に関する戒律が種々の宗教に散見されるのは、その土地の生産力に依存している」という示唆があり、これは社会生物学の観点からなるほど面白いな、と感心したことがあったが、今回のような指摘もとても興味深い。

④日本の仏教が日本独自のもので、世界の大多数の仏教とは異なるということを知った。だから、仏教を説明するときに、自分たちの国の仏教は特異な存在であることを認識しておく必要があるようだ。
驚いたのはオリジナルの仏教僧はお金を触ってはだめだということである。日本の坊さんは結構お金持ちがいたりして、一般人よりお金に対する愛は深い人もいる気がする。

多神教であるヒンドゥーと仏教の大きな違いは、神と仏の位置関係にある。ヒンドゥー教では神がいてその下に仏と人がいる。しかし、仏教では覚りをすませた仏は神より上位に来る。神は覚ることができないそうだ。悩んで悩んで、だからこそ仏様はすごいのだ。
日本人、殊に神道に重きを置く人にとって、神と仏はかなり近い存在で、あまり区別はない。明治維新前までの仏が神の姿をして世の中を救いに現れるという考えに影響されている。多くの日本人に見られる「神の不在」には、神の存在が相対的であることが起因しているのかもしれない。神は常にいるのではなく、御見えになったり、御隠れになったりするのだ。

⑥やはり、現地に行って、自分の宗教をどう表現すべきか。「無神論者」という答えは絶対に使わないほうがいいということ。なぜならこれの意味するところが、「神などいないし、それを信じるなどどうかしている」というような、少し過激な主義を持っていると思われるからだそうだ。かといって「仏教」や「神道」などと言っても、聞かれた場合にどのようなものかきっちり説明するのは難しい。
何が良いという答えはないが、とにかく相手の信じるものを敬うことがまずは大事だということだ。しかし、一神教の考え方を持たない我々が、彼らの考えを尊敬するなど容易いことではない。下手したら「お前に何がわかる!?」と怒鳴られてしまうかもしれない。はてどうしたものか。。。まずは一人の人として相手に真摯に向かい合うことであろう。そして自分にも神はいて、それが絶対的なものではなく、自分たち人間に近い存在で、時には厳かで、厳しく、時には包み込むように優しく、寄り添い、また、愛嬌のある存在である。ということを伝えたい。神社や寺はもちろん、木々や動物、岩、水、または包丁や柄杓など、果てにはトイレにも神は宿るし、一枚のぼろ雑巾にだって宿ると信じている。だから神社や寺で立ちションできないし、木や草、動物や岩も傷つけるのは忍びなく思うこともあるし、トイレもきれいに使おうとする。日本人の神の形から、日本の文化や生き様みたいなものも説明できたら最高だ。


と、こんな感じで宗教について学んだので、実地研修という理由をつけて、安藤忠雄氏が設計した光の教会にお邪魔した。礼拝にも参加させていただいた。
春日丘教会という名前で、その中の一つの建物として光の教会はある。私は礼拝というものはまったく初めてだったので、とても新鮮だった。

教会によって雰囲気は様々なのであろうが、光の教会には
荘厳な中にそこに集まる人々の優しさを感じた。
聖書のどこを見ればよいのかあたふたしていると、
後方に座っていた初老の男性が、さっと聖書を開いて見せてくれた。

打ちっぱなしのコンクリートにあけられた十字のスリットから、
朝の落ち着いた光が薄暗く重厚な空気の中を走る。
まるで闇に十字が浮かぶように。。。

また、礼拝ではいくつも歌を歌うので気持ちのよい朝となった。