名前

今日で長い中間テストは終わり。
採点の日々がまたしばらく続く。

テストの採点をしているときに名前を見る。
採点をしながら、まだ授業を持ったことないのに、
あまりに素っ頓狂な解答だと、この生徒は面白い生徒だなぁ。
とか、この生徒はなかなかできるな、とか、いろいろ思いを馳せている。

そして、名簿に点数を記入していくのだが、この作業がまた困難なのだ。
慣れ親しんだ日本人の名前なら簡単なのだが、
こっちの人の名前は最初読めなかった。
Hの後にLが来たり、Kの後にHが来たり。。。
読めないから、名簿の中でそれを探し当てるのに一苦労。
でも何度かやっているうちにすらすら読めるようになってきた。

こっちの人の名前は日本と同じ様に、苗字があって名前がその後に来る。
苗字は現地名が多いが、名前は英語名が多い。
アパルトヘイトの時代に現地名より英語の名前が推奨されたようだ。
いや、むしろ英語名でないと社会に受け入れられなかったようだから、半ば強制か。
だから、マンデラさんもネルソンというイギリスの提督由来の名前を持っている。
それでも今でも現地名を持っている人もいる。
ところで、こっちの人の名前は日本の感覚からしたらすごい直球だなというのが結構ある。
たぶんキリスト教に関連した名前なのだろうが、西洋に見られる聖書に登場する偉人達の名ではない。
例えば、Supprise(驚き)やInnocent(無実)、Dankie(アフリカーンスで感謝)、Prince(王子)、Promise(約束)、Mpumelelo(成功)など。
Nkosiは苗字だけれども、これもまた神という意味なので凄い直球だ。

名前にはつけた人の思いが込められている。彼らが生まれたときに、彼らに授けられた名前。
それを一生涯大事に生きる。僕もそう生きてきた。
たまには自分につけられた名前と自分の個性を照らし合わせて考えてみたり...
こっちに来て何度も名前の意味を聞かれた。
そのたびに太陽のように明るく、人と人とを繋ぐような人になるように、と親がくれた名だよ。
と説明する。ちょっと自分の解釈も交えているが、漢字を説明するにはこれがちょうどよい。
買い物先で母親に負ぶわれた子供を眺めながら、
「この子もいい名をもらって、これからこの社会で生きていくんだなぁ」
とか思ったり。
と、こんな風に、小さな子供が働く母親の背中ですやすや眠っているのをこっちでは良く見かける。
結構好きな風景だ。こっちの赤ん坊は天津甘栗の剥いてないやつみたいでかわいい。