嬉しい言葉

今朝テストの結果を張り出していたら、
Khwidzhiliさんが興味深そうに近寄ってきた。
僕が作った得点の頻度グラフが気になったようだ。
こんな風に自分が持ってきたやり方に興味を持ってもらえると嬉しい。
「こういう意味でしょ?」「俺もやりたいから教えてくれ」と。
「お前が帰るまでに俺の頭にお前の頭をしっかり置いていってくれよ、知識の交換だ」と、
本当に嬉しい言葉を聞くことが出来た。僕と同じことを思ってくれている同僚がいるというのは、
今後の活動に少なからずプラスになるだろう。

彼は現在修士号をとるべく大学へちょくちょく通っている。
とても向上心があり、話していて楽しい。
植物生産学の先生をしているが、その利を生かし、修士論文で農業学校の卒業生に対する国の支援プロジェクトの展望について書いている。
また、コネクションを生かし、外部との連携で農業実習も可能にしている。
修士号を取ったらさっさとこの学校をやめて次なるステップを考えているようだ。
こういう風に目標があり、学校を去るのはとてもいいことだと思う。
ただ、それをすることでこっちの学校でやるべきことをないがしろにしていてはダメだけど。。。

しかし少し、いや僕からしたらかなりラベル重視なところがある。
たくさんの資格証明書と卒業証書を誇らしげに見せてくれたことがある。
彼のパーソナリティがそうなのか、その所作は全然いやらしくない。
むしろ誇りを持っている姿は見習いたい。
今の南アと一昔前の日本はこの点については同じなのかな、と思った。
(一昔前の日本と言っていますが、どうでしょうか、僕は新しい世代(ラベルの価値がなくなった世代)なので、
話で聞いたにすぎません。もしその世代にいた人が見ていたらコメントください。)

たぶんこの性向は南ア全体、少なくともこの州全体の傾向だと思う。
良い大学に行き、学士、修士、博士を取れば就職は困らない。
(日本はむしろ修士、博士を取るにつれて就職が難しくなると言われる。企業が賢いのかな。。。)
しかし、それが行き過ぎた結果、生まれた弊害が、
「中身などどうでも良い。ラベルだけしっかり貼られていれば出荷試験にパスできる。」ということだろう。
今働いている学校の数学の試験を見ればわかるが、小、中、高校と試験をパスしてきた生徒が、
基本的な計算が出来ない。これは出荷試験がいい加減だからだろう。
中身まで検査しないのだ。ラベルだけ見てちゃんと貼られていれば試験をパスさせてしまう。
未完成な缶詰のままでは出荷された後が買い手がいない。
だから僕のいるカレッジを出た生徒の就職先は皆無に等しい。職業訓練校という名前がむなしく響く。
首都などの白人が多いところの学校はこの限りではないと思うが、南アの田舎の学校は今もこうした問題を抱えている。